羽木家が移り住んだ緑合(ろくごう)の地とは

緑合アシガール続編SPでは、織田の侵攻で黒羽を脱出し、野上領の山中でひっそりと過ごしていた羽木家は、殿の決断によりここを出て緑合の地へ向かいます。
この緑合の地がどこにあったのか考えてみます。
羽木氏の領地・黒羽城はどこにあったのか?の考察に従い、羽木家の領地が北勢にあったものとして検証しています。

緑合の地に着いた映像も無いばかりか、どこにあるかについても続編SP中ではほとんど触れられていませんが、一つだけヒントがありました。
羽木の殿によると「緑合は我が母の里」とのこと。

婚儀といえば原則政略結婚だったこの時代、羽木家クラスの戦国大名が正室を迎えるとしたらほとんどが近隣からだと思います。
お隣さんとはできれば縁戚関係を結んで争わずにすませたいと考えるのが世の常。
松丸もお隣さんだし…
よって緑合も羽木領があると推理した北勢近くにあったものと思います。

緑合の候補地は…

永禄3年当時の北勢には北勢四十八家という中小領主が共存していたのですが、永禄11年からの織田軍の伊勢侵攻に伴い、ここの領主たちは次々と攻略されていきます。
帰順して生き残る者、戦って滅んでいく者…(T_T)
高山は織田家に臣従して生き延びたようですが、松丸や野上にも厳しい運命が待っていることでしょう。

緑合が信長以外の有力戦国大名の勢力範囲にあるとすれば、御月家はとりあえずその大名と臣従か同盟関係にあるものと思われます。
でも、もしその大名が信長と敵対すれば戦に巻き込まれます。
そして、その大名が滅ぼされることにでもなれば道連れになる恐れも…
でなくても北勢から近い位置にある城であれば、おそらく緒戦で標的になることでしょう。

ということで、信長との争いを避けた地域、あるいは大きな損害を被らなかった地域に緑合があると考えるのが自然です。
北勢近くで羽木家が安住できる地となるとそれなりに絞り込むことができそうです。

北勢の東は織田の領地・尾張なので、それ以外の方面になるでしょうか。
それは羽木領・北勢の北か、西か、それとも南か…

北勢の北から西にかけての方面

北は西美濃で、斎藤氏の領地。
永禄10年、斎藤氏の居城・稲葉山城は信長に攻略され、城主の斎藤龍興は城を捨てて逃げます。

北西は北近江・浅井氏の領地。
元亀元年(1570年)から信長に攻められた末、元亀4年(1573年)居城・小谷城は落城、浅井家は滅びます。

西は南近江・六角氏の領地。
六角氏の居城・観音寺城は戦国最大の山城で、No.8112で書いたように戦国最古の石垣があります。
ここも永禄11年に信長に攻められ、城主の六角義賢は城を捨てて逃げます。

永禄10年に美濃を手中にした信長は居城を名古屋城から岐阜城に移しますが、そこから京都に行くには大垣から関ヶ原を通って琵琶湖沿いに進む中山道ルートを通ったようです。
つまり上記の北勢の北から西にかけての地域は信長が軍勢を引き連れて行ったり来たりするので、家臣か同盟関係にある大名で固められていたはず。
この地域は残念ながら羽木家安住の地・緑合には適さないようです。

このルートから外れているのは南方面の伊勢。
ということで、この伊勢の地に注目してみます。

緑合の候補地 北勢の南方面…中勢

緑合ここは永禄10年から織田軍の侵攻があり、永禄12年に4万の大群で本格的に攻めてきます。
伊勢の戦国大名・北畠氏は一時激しく戦ったものの結局講和を結んでいます。

信長は永禄11年の伊勢侵攻で、北勢を攻略した後、中勢北部の有力国人である神戸氏(鈴鹿市付近)、関氏(亀山市付近)、長野氏(津市付近)を次々に攻略します。
ただし、全て最終的には講和です。

信長公記には、その翌年、信長は途中にある小城には目もくれず、北畠氏の本城・大河内城(松坂市付近)を目指して進撃したという記述があります。
そして、大軍で城を包囲した末に有利な条件で講和に。

中勢地域は平氏の流れをくむ群小領主が割拠する地。
上記記述によれば、こうした中小領主なら表立って抵抗しない限り戦に巻き込まれなかったかもしれません。
後日信長に帰順の意を示す必要はありますが…
ということで、その中勢辺りに羽木家安住の地・緑合がある可能性があります。

ただ、一つ困ることは、相賀一成とは何者なのか?の記事で書いたように、ドラマ中の織田家の武将・相賀一成が、実際の伊勢侵攻で活躍した織田軍の武将・滝川一益に重なるという点です。
この地に緑合があって若君がいるとなると、相賀殿の目にとまる危険があるんですね。

まあ、織田家中では若君は死んだことになっているし姓も変わっているんで、相賀殿は気づいたとしても無かったことにするかもしれません。
ただ、その後にややこしいことになるかもしれないので、羽木家安心存続のため、他の緑合候補地も考えてみることにします。

緑合の候補地 北勢の南西方面…甲賀

緑合緑合の候補地の方向として残るは南西方面となりますが、北勢の南西にあるのは甲賀。
その先には伊賀、さらに先には大和があります。

伊賀は天正6年(1578年)から翌年にかけて8千の織田軍に攻められます。
この時は信長の次男が独断で攻めてきたこともあって見事に撃退したのですが、天正9年(1581年)、今度は信長が5万の大軍で攻めてきたのでさんざんにやられ壊滅状態に陥ります。
この付近にいるとただではすみそうにありません。

大和は室町幕府が守護大名を置かず、長く興福寺が支配していた国。
寺内部の権力抗争などいろいろと揉め事が多く、この地が応仁の乱の火種になったという説もあるようです。
ちなみに、当時の寺社は武装して武力で領地を支配していたので戦国大名とあまり変わりはありません。
それどころか味方だと思っていた領主や国人が門徒ということで突然裏切ったりするんで、戦国大名にとってはやっかいな相手でした。

ずっと大名等による支配を受けなかった大和ですが、戦国になるとさすがにそうもいかず、永禄3年頃には戦国武将・松永久秀の支配下になります。
このお方がなかなかヤバいやつなんでここはちょっと…
個人的には歴史上の人物に限ってはヤバいやつが好きなんですが…(^^;
それに大和は北勢とは少々距離があるようです。

ということで、甲賀に戻って考えます。
甲賀は中小領主の合議制による自治体制をとっていたといわれます。
甲賀の情報収集能力は利用価値が認められていたからなのか、有力戦国大名の表立った支配を受けていません。

甲賀の領主たちは時勢によって味方する相手を変えることで巧みに生き残りを図っています。、
当初、南近江の戦国大名・六角氏に仕えていましたが、侵攻してきた信長が六角氏を破ると勢いのある織田についたため、伊賀のように大群で攻められることはなかったようです。

甲賀と違い、自立心旺盛な戦闘集団・伊賀は信長の軍門に下ることを潔しとせず、戦って壊滅的な打撃を被ります。
一方、甲賀の領主たちは比較的早い時期から信長に味方したため、大きな障りはなかったようです。
ただ、秀吉の時代になると甲賀は冷遇され、改易処分となり武士の身分を捨てざるをえなかった家も少なくなかったようなので、厳しい状況に変わりはないと思います。

緑合・御月家が甲賀周辺の一領主であったとすれば、旧羽木家の結束力で苦難を乗り越え、領地は小さいながら、その後末永く続いていくことができたかもしれません。

最後に、相賀一成が滝川一益に重なるという点について触れておきます。
滝川一益は父が甲賀出身らしいということがわかっているだけで本人が甲賀出身かどうかは不明です。
仮に甲賀の出だとしても、信長に仕え伊勢攻略に奔走していた状況で故郷を振り返る余裕はなかったと思われます。
中勢と違って合議制による自治体制をしいていた甲賀が地域で臣従の意を示していれば、一つ一つの家にあまり深く立ち入る必要はなかった…
つまり、相賀殿が御月家と関わる機会は、甲賀の方が中勢より少なかった、と考えます。