アシガール 戦国武将前記事:羽木九八郎忠清のモデルとなった戦国武将は?(1)からの続きです。

織田信長との同盟
織田信長にとって、上洛のため西(京都)に進行するには近江は位置的に重要な地でした。
岐阜と京都の中間点であるこの地を押さえないことには上洛はかなわないからです。
そこで信長は1567年、北近江の領主・浅井家と同盟を結ぶため、自分の妹・お市を長政に嫁がせることにします。
できれば戦を避けたかった信長は六角氏にも同盟の申し入れをしたようですが拒絶され、長政と同盟を結んで六角氏を駆逐することにしたのでした。
信長は11歳年下の長政を本当の弟のように可愛がり信頼を寄せていたといいます。
婚礼の際も、費用は迎える側で用意するのが当時のしきたりでしたが、信長は全てを負担したといわれています。
このことからも、信長がいかに長政に期待を寄せていたかわかります。

ただ、合理的な考えの信長にとっては、近江の地の重要さゆえの好待遇だったのかもしれません。
岐阜に拠点がある間は京都までは少々遠い。
いずれ都の近くに居城を構えるまでは、という計算はあったと思います。
1979年、信長は都に近い安土に城を築きますが、この時まで長政が信長に帰順して生き延びていたとしたら、その後は待遇が変わっていったかもしれません。

浅井家と越前の朝倉家
浅井家は越前(福井県あたり)の戦国大名・朝倉家と祖父の代から親交があり、朝倉家の後ろ盾によって六角氏との戦いを続けられたという経緯がありました。
しかし、若い長政は、そんな朝倉家からも戦時に援助を受けず、戦国大名として独立した浅井家の確立を目指していました。
ただ、父と古くからの家臣は朝倉との同盟を破棄することなどありえないと考えています。
隠居して長政に家督を譲ったとはいえ、父・久政は家中にかなりの影響力があったと思われます。
この家中の火種が後に浅井家を窮地に追い込むことになります。

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織田信長との決別
そんな状況の中、1570年、信長が越前の朝倉攻めを開始します。
浅井との同盟が成ったので、元々織田と確執のあった朝倉を一気に駆逐してしまおうとの目論見があったのだと思います。
織田・浅井の同盟の条件には、浅井の了解なく朝倉を攻めない、というものがあったといいますが、信長は若くて先のことが見える長政なら必ず自分に従うであろうと信じていたようです。

この状況にどう対処するか浅井家中は大きく揺れますが、結局、若い長政(当時25歳)には父や古くからの家臣の「朝倉との同盟を破棄してはならぬ」という意見を退けることができませんでした。
長政は信長を裏切り、朝倉を攻めている信長軍の背後から攻撃して挟み撃ちにするという決心をします。
信長はここで最大のピンチに陥りますが、持前の合理的な思考と決断の速さで、何の未練もなく一目散に京都に逃げ帰ります。
ここで体裁とか恰好を気にしていたら、この後の信長はなく、歴史は変わっていたかもしれません。
信長にとってはまさに死地からの生還でした。
それだけ長政は戦上手であったわけですが、信長の方が一枚上手だったということですね。

浅井家滅亡へ
信長の長政への今までの信頼は大きな憎しみに変わり、信長の浅井朝倉攻めが始まります。
1570年、長政は朝倉義景とともに臨んだ姉川の戦いで大敗しますが、信長自身も本願寺、武田信玄など周囲に敵を抱え、なかなか浅井朝倉攻めに注力できない状況が続きます。
ところが、信長との決戦のため西へ進行してきた信玄が陣中で病没したことによって状況が動きます。
東の憂いがなくなった信長は本格的に浅井朝倉攻めを再開します。
戦いの最中、巧みな調略によって頼みの綱の家臣たちは次々と信長に寝返り、数年を待たずしてほぼ丸裸にされてしまいます。
ここで、あれほど家臣から信頼が厚かったと思われた長政がなぜ?という疑問が起こります。
戦国大名としてはまだ日が浅かった浅井家は、他の戦国大名のような主従関係が確立しておらず、周辺の国人のリーダー的存在という立場から抜け出せていなかったため、自分の領地を守るための裏切り、寝返りが続いたのではないかと推測しています。
最後の戦いとなった小谷城攻めで、援軍に来た朝倉勢の撤退を見ると、信長はこれを追撃して一気に越前まで進攻し、朝倉家を滅ぼしてしまいます。
そして、返す太刀で全軍で浅井に襲いかかります。
ここまでの経緯は悲劇的かつ絶望的です。
同じく滅亡するにしても、大河ドラマになった織田信長、明智光秀、真田信繁などは、最期の直前までその人生には希望、あるいは達成感があります。
次々と希望が立たれ、救いのない状況がさらに悪化しながら続いていき、行きつくところは滅亡ですから、長政を主人公とするドラマはなかなか作りにくいでしょう。

ほどなく浅井の居城小谷城は炎上落城し、浅井家は滅亡します。
1573年、長政29歳の時でした。

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