御月家アシガール続編SPで、羽木家は殿の母の里・御月家の領地がある新天地・緑合を目指します。
ドラマの最後に平成から跳んで永禄に着いた唯と若君もこの後、緑合の御月家に向かうことになるのでしょう。

続編SPのBD・DVDに納められた番外編 Episode4「若君との日々」で、
「無事だったら知らせる。どうにかして絶対知らせるから。」
という唯の言葉を聞いた尊が、
「こんなものが新たに発見されるんじゃないか」
と唯と若君が継いでいく緑合・御月家の家系図を妄想しています。

以下はその御月家系図を書き写したものですが、この系図からいろいろとわかることがあります。

緑合・御月家系図

御月家家系図
若君の名前・忠清の「忠」は、殿の名前「忠髙」から受け継いだ字です。
木村先生の歴史書にある羽木家系図によると、この「忠」の字は羽木家代々受け継がれた通字であることがわかります。
二文字の名前のうちで通字でない方の字を「偏諱(へんき)」といいます。

さて、ここで注目すべきは御月家当主・晴永の名前にある「晴」の字です。
御月家の通字は「永」のようで、その場合、「晴」は偏諱となります。
ここから面白いことが考えられます。

御月晴永の「晴」の字の由来

御月家当主・晴永の年齢は不明ですが、羽木の殿と同年代か少しだけ上の1515年頃の生まれだとすると、室町幕府12代将軍足利義晴(1511~1550)の「晴」の字を賜った可能性が高いです。
殿よりかなり年齢が上の場合は、何らかの功績で「晴」の字を賜ったか、足利義晴に何らかの縁があったため将軍宣下にちなんで改名したという可能性があります。

戦国時代といえども、当代の将軍の名前の字を黙って使うわけにはいかないので、許されるか賜って使ったものと思われます。
となると、御月家は足利将軍家に関係のある家柄である可能性が考えられます。
有力戦国大名であればそれほど縁が濃くなくても字をもらうことはできると思いますが、中小大名の場合は将軍家と何らかの関係があると推測できます。
御月家の領地・緑合の場所を推理した際に、中勢から甲賀にかけての地域と推理しましたが、中勢は平家に縁のある地域です。
ここにきて、源氏にも縁がある可能性が浮上した御月家ですが、今後の展開が楽しみになってきました。

「晴」の字が名前に入った戦国武将

「晴」の字が名前に含まれる武将は甲斐の武田晴信(後の武田信玄)(1521~1573)が有名です。
他には、当時の畿内の実力者である山城・摂津・丹波守護の細川晴元(1514~1561)や播磨・備前・美作の赤松晴政(1513~1565)。
陸奥の南部晴政(1517~1582)、越後の長尾晴景(上杉謙信の兄)(1509~1553)など。
これらの武将は当代の将軍・義晴から「晴」の字を賜ったことが伝わっています。
さらに、出雲の尼子晴久(1514~1561)、周防の陶晴賢(1521~1555)など。
将軍にちなんだものではないものまで含めて、偏諱(通字ではない方の字)に「晴」が含まれる名前はこの頃よく見られます。

余談になりますが…
第1話タイトル直後の授業シーンで、黒板の一番上に上記の「細川晴元」、2番目に「武田晴信」の名前が見えます。
そして、その下に「今川義元」と書かれていますが、さらにその下に「陶晴賢」の名前が見えます。
「晴」にちなんだ名前の武将が並んでいるのは偶然でしょうけれど、その日の授業内容が頭に浮かんできます。

参考までに、黒板に書いてあることは(見えないところは補完しています)
戦国大名の登場
1536年:天文法華の乱 細川晴元幕政支配
1553年:川中島の戦い(1次)武田晴信VS長尾景虎
1554年:甲相駿三国同盟(武田晴信、北条氏康、今川義元)
1555年:厳島の戦い 毛利元就VS陶晴賢
1559年:武田晴信が信玄と名乗る
この後、クラスの吉田君が羽木家滅亡について答え、「翌年がかの有名な桶狭間の戦いだ。」という木村先生の言葉で締めくくられます。

室町幕府第12代将軍 足利義晴(1511~1550)のこと

将軍在位は永正18年(1521年)から天文5年(1536年)まで。
弱冠11歳で征夷大将軍に就任し、その後、同じ弱冠11歳の嫡男・義輝に将軍職を譲っています。
将軍足利義晴は政情不安の京都になかなか長期に渡って座することができず、生涯を通して幾度も都を落ち延びたり帰京したりを繰り返しています。
近江の戦国大名・六角氏の居城である戦国最大の山城・観音寺城の山麓にある桑実寺境内に約3年に渡り居住していたこともあります。
この時は主要な家臣も同行していたので、事実上、室町幕府ではなく近江幕府という状態だったようです。
戦国における足利将軍家の権威は失墜しているとはいえ、やはり武家の棟梁という名目には少なからぬ影響力があったようです。

命名のルール

羽木家に代々伝わる通字は「忠」ですが、「〇忠」のように家の通字を下に置くのは嫡子のみに許され、通常、その上にくる〇に入る字(偏諱)はその家にとって「忠」より格式の高い文字となります。
格式の高い文字とは、将軍家や主君筋の名前に使われている文字です。
上記の武将の名前でも全て「晴」の字を名前の頭に置いています。
「御月晴永」という名前もその慣例に従っています。

唯と若君の子供たちでもそのことがよくわかる名前があります。
一番右側にある「晴忠」という名前です。
書いてある場所と系図が次の代に繋がっているので嫡子だとわかりますが、羽木家の通字「忠」を下に置いていることからもそのことがわかります。

12代将軍足利義晴は1536年に嫡子の義輝に将軍職を譲っているので、晴忠の「晴」の字は羽木の殿に御月家を譲った「晴永」からもらったものだと思います。
この場合、「晴」の字は羽木の通字「忠」より格式が高く敬意を表すべき字となるため、上に置いて「晴忠」としているんですね。

さすが、尊は科学だけでなく戦国の命名のルールまで知識があるようです。

御月家 唯と若君の子供たちの名前

その尊の名前は三男「忠尊」に受け継がれて?います。
三男なので、家の通字「忠」は上に置かなければなりませんね。

次男「覺髙」は殿とお父さんの名前を入れているようです。
この場合はお父さんに敬意を表し「覺」を上に持ってきています。

四男「隆成」には兄上さんの字が入っています。
嫡子ではないようですが、系図には子供「成宗」まで入っています。
他で子供が書かれているのは嫡子のみですが、ここだけが書かれているのは何か理由があるのでしょうか。
どこか他の家を継いで、その家も戦国を生き抜いたとか…

末の女子「美香」にはお母さんの名前が入っています。
なぜ、最初の女子につけなかったかはわかりません。

ところで、兄上さんの名前に「忠」の字が無いのは、城から遠ざけられていたことも理由の一つではないかと思います。
嫡子でなくて庶子でも、家中に居ればもらえたかもしれません。
家中での働きが認められれば、忠○に改名が許されることもあるかもしれません。
でも、兄上さんにはずっと親しんだ「成之」のままで生き抜いて欲しいですね。